さかなはそらに ことりは水に

とりあえず反対のことを言ってみるブログです

「日本」という国は、ない。【後編】

前回、「日本という国はない」という、まるで「とんち」みたいな話をしました。

一休さんは年代ではないですが、再放送で観たような気がします。

 

youtu.be

 

なんにも覚えていません。

正しい日本のアニメーションの姿と言えるでしょう。

 

「日本という国は「ある」のではない。常に「あった」となる、なぜなら…」と甘犯構文で話しました。

 

 

腹減った。

 

どうでもよくなってきた。

どうせ誰が読むわけでもなし。

 

まずご飯を食べることにします。

 

 

 

 

 

今、味噌汁を飲んで、白菜を醤油とオリーブオイルで食べました、美味しかったです。

日本人に生まれて来て本当によかった。

 

まぁ、たまたま日本に生まれて来てしまったから、醤油と味噌で育って来ているわけで、日本以外に生まれていたら、その国のご飯を美味しいと思い、その国に生まれて良かった…と思っていることでしょう。

 

そういう話です。

いや、違うな。

 

たまたま、今の時代の日本に生まれてきてしまったから、味噌と醤油が完成した状態でここにあり、それを「日本だ」と思ってしまうという話です。

 

すでにある程度の完成形があるため(というよりは、そのように錯覚してしまうため)、「日本」という完成形の国があるのだ、と思ってしまう。

 

ですが本当は違う。

 

味噌や醤油は、長い年月をかけて出来上がって来たわけですが、それは最初から完成形としてあったのではない。

経過の段階、途中の段階があったはずなのです。

 

 

だけど私たちはそれを忘れている。

 

「ニワトリが先か、タマゴが先か」みたいなものです(違うか?)。

 

味噌や醤油は、長い年月をかけて変化し、結果的に出来たものであって、最初から味噌や醤油として現在の姿でここにあったわけではない。そしてこれからも変化して行くのかもしれない。

 

日本は、長い年月をかけて変化し、結果的に出来たものであって、最初から日本として現在の姿でここにあったわけではない。そしてこれからも変化して行くのかもしれない。

 

 

今調べたら、味噌は最初、醤になり切っていないもの、大豆の形が残っている保存食のようなものだったらしく、その後現在の調味料のような形になったようです。

だけど、私たちは、「味噌は日本の伝統食」ということで、すでに出来上がったものとして考えていませんか。どうですか。

これから先、味噌の形が変わっていくこともあるかもしれないのに。

 

そういう話です。

 

「日本」は最初から完成形としてあったわけではない。

 

ご先祖様が、一所懸命(かどうかは知らないけれど)生きて、暮らしたその結果が、ある程度溜まった段階で、その時点から振り返った時にある程度まとめられる何かを、「日本」「日本の伝統」としているという話でしかないのです。

 

なのに今の私たちは、まるで「日本」という国が、最初から完成形としてあるかのようにとらえていませんか。

 

そして今じゃ、その「日本」をなぞっている始末。

 

曰く、「日本人は勤勉だ」。

「日本人は優秀だ」

「日本人は民度が高い」

「日本人は我慢強く、災害のときでも自制心がある」

 

平安時代、盗賊が多かったことや、江戸時代の雲助など完全に忘れておる。

 いやまぁ平和なことには越したことがないけれど。

 

「日本(人)はこうだ」とされることをなぞることと、

日本(人)とかそんなことうっちゃって、私たちが生きた結果が「日本(人)だ」となる、では大違いですよね。

 

でも、ある時点までは「日本(人)的なもの」なんていうものはなかったはずなんですよね。

まぁ、ある程度経った時点で集約された「日本(人)的なもの」というのは確かにあって、それをなぞり続けているのだろうから、「日本(人)的なもの」というのは確かにあるのでしょうが。

 

 

 

日本という国は、ない。

いや、正確に言うなら、「日本という国はあった」と、常に過去形になる。

「ある」のではない、「あった」。

なぜか。

 なぜなら、「国」とは、その成員が生きた結果、取った行動の結果が、「こういうことがあった」というサンプルとなり、それが集積して形作られるものだから…。

 

そうは言っても、今現在「日本とはこういう国だ」とされていることが、その成員にとって美しく、良いものだと思えるのならば、日本という国を成している成員はそれを捨てないでなぞり続けるでしょう。

その必要がないですもんね。